その他の「高瀬川」 3 (西高瀬川上流部・古高瀬川)




西高瀬川(上流部)


次は西高瀬川の様子を見てみます。西高瀬川は丹波地方から桂川経由で輸送されてきた木材等の物資を直接京の中心部(二条城周辺)へ運搬するために江戸末期から明治初期にかけて開削されました。既にあった高瀬川に対して西側にあったことから「西高瀬川」の名前がつけられたようです。四条川や堀子川といった自然河川や農業用水をつなぎ合わせてつくられた人工河川であり、現在もその痕跡の一部をうかがい知ることが出来ます。

西高瀬川の図:「洛西の河川の変遷図」


西高瀬川は嵐山・渡月橋西側で桂川から取水されます。



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桂川の堰西高瀬川の源頭



桂川から分離した直後の西高瀬川には水量を調節する樋が数箇所設けられています。特に三条通沿いにある「樋の口屋」裏手には大きな樋門が設けられ、代々店の方々によって水量調整・管理されてきたそうです。


桂川の脇を細々と流れる西高瀬川水量調節用の樋。余った水を落としています。



樋の口屋樋の口屋裏手の樋



樋の口屋を通過し水量が落ち着いた川は右京区嵯峨・嵯峨野地区を東に向かって流れていきます。この地域は西高瀬川の中で唯一掘り下げられていない区間で「高瀬川」の面影が一番濃く残されています。


西高瀬川


西高瀬川にかけられた簡素な橋川アップ



途中、有栖川とサイフォンで立体交差します。西高瀬川が下をくぐる形になっています。
(サイフォンの詳細については「疏水分線」「哲学の道周辺の疏水分線」の章を御覧ください。)


サイフォンをくぐる西高瀬川有栖川



右京区太秦地区に入ると、西高瀬川は掘り下げられ、都市河川の様相に変貌します。


都市河川に変貌する西高瀬川掘り下げられた川



この地域の川沿いの田畑には左下の写真のような農業用水のタンクが見られます。
これは上の写真のように川が掘り下げられ護岸で固められたことにより、周囲の農家はこれまでのように西高瀬川から水を田畑に引くことができなくなり、代わりにこのタンクが設けられることになったようです。
このタンクは西高瀬川がかつては水路としてだけでなく、農業用水としての役割も果たしていたことの証左になっているのです。


農業用水のタンク太秦地区に残る田畑



太秦地区を抜けると、まもなく天神川にさしかかります。西高瀬川の水は全てこの川に落とされており、これ以降の流路との連続性が失われています。これは昭和10年に起きた京都大水害により河川改修が行われた結果、天神川が深く掘り下げられたためにこのような構造になってしまったわけです。


天神川に水を落とす西高瀬川天神川



古高瀬川

古高瀬川は西高瀬川の分流水路で、同じく水運に利用されたようです。
古地図によると南太秦小学校付近で西高瀬川から分岐して、四条通沿いに東進して西院駅付近で再び西高瀬川に合流していました。開削に当たって四条通沿いに流れていた四条川の流路が利用されたそうです。
現在は流路の大半が埋め立てられ、川の痕跡をたどるのが難しい状態になっています。特に源頭部分は不明瞭で、川の水はもっぱら嵯峨・嵯峨野地区で西高瀬川から分岐した農業用水に頼っています。



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右京区嵯峨野に残る農業用水の樋。古高瀬川もこの付近で分岐していたようです。農業用水の様子



農業用水の水を集める西高瀬川現在唯一残る古高瀬川の流路




天神川に水を落とす古高瀬川



●メモ

◎樋の口屋は川魚料理で有名なお店です。「京都水ものがたり」(淡交社)にお店と川との関連の詳細が載っています。




1、みそそぎ川(取水口〜高瀬川分岐点)
2、みそそぎ川(高瀬川分岐点〜鴨川合流点)
3、高瀬川源流庭苑
4、高瀬川(二条〜五条)
5、高瀬川(五条〜七条)
6、高瀬川(七条〜十条)
7、その他の「高瀬川」 1 (東高瀬川上中流部)
8、その他の「高瀬川」 2 (東高瀬川下流部・旧高瀬川)
9、その他の「高瀬川」 3 (西高瀬川上流部・古高瀬川)
10、その他の「高瀬川」 4 (西高瀬川中流部)
11、その他の「高瀬川」 5 (西高瀬川下流部)

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