大阪の渡船場
 




渡船にマークされた大阪市の市章。
これは「みおつくし」という水路に建てられる標識のようなものが由来になっています。
舟運が盛んだった大阪のシンボル的な存在だったようです。



渡船のはじまり
川の都・大阪においては古くから架橋の進んでいない郊外地域を中心に渡船が運行されていました。当初、それらは私設のものであったり民間の手で営業されていましたが明治期になると市営事業化され、大正期には旧道路法で渡船が道路の付属物に位置づけられて運賃が無料になり、昭和戦前期にはこれまでの請負制から市の直営制に切り替えられました。

現在残っている渡船
しかしそれらの多くは戦災によって廃止されることになり、戦後再開した15箇所も8箇所にまで減少してしまいました。現在残っている渡船場の特徴は

1、昭和39年に設けられた各河川の防潮水門より下流(海側)に位置する

2、川や海の傍ぎりぎりまで工場が建ち並んでいる地域にある

3、その川や海では大型船の通行が多い

の3点が挙げられます。つまり高潮のおそれ用地買収の問題大型船の通行の問題から橋を架けることが困難、又は架けれたとしても歩行者や自転車の乗客には不便な高度のあるループ橋しか無理であるという地域では渡船が未だに現役であるということが言えるわけです。

渡船場と親水
渡船場がある港湾地域は一般的に都市の中で最も親水性が低い場所です。河川が流れていても高い堤防や工場に阻まれていて、橋から眺めるくらいしか川に近づける方法がありません。

その意味で現存する渡船場は港湾地域でほとんど唯一水辺に近づけるスポットとして貴重な存在だと言えると思います。確かにお世辞にも水がきれいという場所では無いために渡船場での「親水性」は無意味だ、という考え方もありましょうが、少なくとも川と生活との関わり合いを考えさせられる場所であることは間違いないと思います。

これからも「川の都」大阪のシンボルとして是非渡船を残してもらいたいと思います。



<渡船場簡易MAP>
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源兵衛渡し跡 野里の渡し跡 富島渡し跡 難波島渡し跡 川崎渡し跡 源八渡し跡 平田の渡し跡 千歳渡船場 船町渡船場 木津川渡船場 千本松渡船場 落合下渡船場 落合上渡船場 甚兵衛渡船場 天保山渡船場

1、天保山渡船場
2、甚兵衛渡船場
3、落合上渡船場
4、落合下渡船場
5、千本松渡船場
6、木津川渡船場
7、船町渡船場
8、千歳渡船場
A、平田の渡し跡
B、源八渡し跡
C、川崎渡し跡
D、難波島渡し跡
E、富島渡し跡
F、野里の渡し跡
G、源兵衛渡し跡






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